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【アラベスク】  第2章 真紅の若葉



第3節 焦慮 [6]




 柔らかな中にも棘を隠した山脇の言葉に、聡は小さく首を振るわせる。
「なんのことだ?」
「僕が抜け駆けをした? 何を?」
「勝手に美鶴に部屋なんか提供して、連れ込んで何するつもりだったんだよっ?」
「何をするつもりだったと思う?」
「考えたくもねぇよ。美鶴を放せっ」
「やだね」
 短く答えられて、聡は一歩前へ出た。山脇の腕が力を増す。
「美鶴は関係ねーだろ。放せ」
「それは(ひが)み?」
「やり方が汚ねーぞ。フェアじゃねーな」
「フェア?」
 その言葉に山脇が眉を上げ、瞳を鋭くする。笑みは完全に消えうせた。
「フェアだって? そもそも僕たちのどこがフェアだって言うんだっ」
 再び語気の荒くなる山脇の息遣いが、美鶴の耳元に吹きかかる。必死に抑えようとしても抑えられない感情が噴出しつつあるのが、美鶴にもわかる。
「僕と君とでは立場が違う。僕は君ほど恵まれてはいない」
「恵まれてる? 何が?」
「僕には、彼女と共有すべき過去がない」
 聡は言葉を失う。美鶴も何も言えなかったが、心の中でそっと呟いた。

 過去なんて、共有すべきじゃない

 だが、今はそれを口に出しては言えない。山脇の真意を見抜けないうちは、何が彼の気持ちを逆撫(さかな)でするかわからない。
「過去なんて、共有したってしょうがねーだろ。別に今の俺たちには意味ねーじゃん」
「そんなことないさ。彼女の過去をどれほど知っているかで、彼女との人間関係は変わるんだ」
「どういう意味よ?」
 ついに口を開いてしまった美鶴へ視線を投げ、だが、ふっとすぐに逸らしてしまう山脇。それは、どことなく気怠(けだる)い雰囲気を帯びており、自嘲気味でもある。
「君は、僕よりも彼の方をより信頼しているよね?」
「別にどっちがどうってワケじゃないわよ」
 憤慨気味に言い返すが、山脇は聞く耳も持たない。
「それはどうかな? 僕と彼とでは、あきらかに扱われ方が違うと思うけど」
「どういう意味よ? 私、それぞれで態度を変えたつもりはないっ」
「つもりがなくても、そうなんだよ」
「そんなことないっ」
「なく…… ないよ」
「そんなことないってっ!」
「じゃあっ! ………」
 大口を開けて美鶴の顔を覗き込み、だがその先の言葉が出ない。
「な…… なによっ!」
 気迫に呑まれぬよう睨み返しつつ、不安だけが身を包む。
 だが一方の相手は、その先を躊躇したまま微かに瞳を泳がせる。
「………」
 半開きの口からは、なかなか言葉が出てこない。
「何なのよ?」
「…………」
「何なのよっ」
「……………っ」
「何か言いなさいよっ!!」
「僕のっ」
 美鶴の勢いに押される形で言葉を吐き出す。
 そこで再び逡巡(しゅんじゅん)し、やがて瞳を閉じて息を吸った。
「約束してくれ」
 凛と響く声音に、美鶴も聡も息を呑む。
「僕のことも、名前で呼んでくれ」
「え?」
 約束をしろと言うからどんな難題を吹っかけてくるかと思えば。
「名前?」
「そう。僕も君のことを名前で呼ぶ」
「なんだ? それ」
 肩透かしを食わされたようで、聡は苛立ちながら一歩前へ出る。途端に山脇は腕に力を入れた。
「――っ」
「やめろっ ルークっ」
「瑠駆真だっ」
 聡へ向かって言い返し、再び顔を美鶴へ近づける。
「約束して」
 耳に囁かれる声は甘く、そのまま全身を(ゆだ)ねてしまいそうになる。それほどに声は優しく力強く、抵抗力を奪っていく。

 コイツ ――――怖い

「美鶴っ」
 歯軋りをしながら叫ぶ声を、美鶴の声が遮った。
「わかった」
「え?」
「わかったから、放して」
 …………
「本当に?」
 言っておきながら目を丸くする山脇に、美鶴は大きく首を縦に振る。
「放してよ……… るっ」
 そこで美鶴は言葉を切り、大きく息を吸った。

「瑠駆真」

 パッと腕が離れ、少年は二・三歩後ずさる。
「美鶴っ!」
 床に倒れこみ、両手をつく彼女に聡が駆け寄る。両手で肩を抱き、()せる顔を覗き込んでからパッと見上げた。
「おめぇ――っ!」
 半ば放心状態の瑠駆真の襟元に、聡の腕が伸びる。
「っざけんじゃねーぞっ」
 そのまま拳を振り上げる。
「やめろっ!」
 体力を消耗しながらも渾身の力を込めて叫ぶ美鶴に、上げたまま腕を止める。
「やめてよ。もういい」
 胸を押さえ、必死に呼吸を整えながらノロノロと首を動かす。
「もういいよ」
「もういいって」
「別に、怪我とかさせられたワケじゃない」
 そう言って、瞳を閉じた。
「でも…… だいたい、なんだよ、名前だと?」
 怒りの納まらない様子で、しかし掴んだ襟を放り出した。押されて瑠駆真はヨロヨロと揺れ、壁に()(もた)れる。
「ルークだろうと瑠駆真だろうと、一緒だろっ」
 いや違う。
 美鶴はキッパリとそう思う。
 それはきっと、美鶴が霞流慎二に『美鶴さん』と呼ばれた時のような、そんなものなのだろう。

 別に、彼に惹かれているというワケではない。

 必死に言い聞かせながら、だが、呼び方呼ばれ方一つも人間関係にとっては重要なのだと、なんとなく理解した。
 少なくとも、まだ付き合いの浅い関係にとっては……
 動揺する胸を抑えながら上げる視線の先で、山脇瑠駆真がズルズルと壁に背を引きずり尻を付いた。
 虚ろな瞳。
 やがて、蒼白した顔を、両手の中に埋めた。







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