柔らかな中にも棘を隠した山脇の言葉に、聡は小さく首を振るわせる。
「なんのことだ?」
「僕が抜け駆けをした? 何を?」
「勝手に美鶴に部屋なんか提供して、連れ込んで何するつもりだったんだよっ?」
「何をするつもりだったと思う?」
「考えたくもねぇよ。美鶴を放せっ」
「やだね」
短く答えられて、聡は一歩前へ出た。山脇の腕が力を増す。
「美鶴は関係ねーだろ。放せ」
「それは僻み?」
「やり方が汚ねーぞ。フェアじゃねーな」
「フェア?」
その言葉に山脇が眉を上げ、瞳を鋭くする。笑みは完全に消えうせた。
「フェアだって? そもそも僕たちのどこがフェアだって言うんだっ」
再び語気の荒くなる山脇の息遣いが、美鶴の耳元に吹きかかる。必死に抑えようとしても抑えられない感情が噴出しつつあるのが、美鶴にもわかる。
「僕と君とでは立場が違う。僕は君ほど恵まれてはいない」
「恵まれてる? 何が?」
「僕には、彼女と共有すべき過去がない」
聡は言葉を失う。美鶴も何も言えなかったが、心の中でそっと呟いた。
過去なんて、共有すべきじゃない
だが、今はそれを口に出しては言えない。山脇の真意を見抜けないうちは、何が彼の気持ちを逆撫でするかわからない。
「過去なんて、共有したってしょうがねーだろ。別に今の俺たちには意味ねーじゃん」
「そんなことないさ。彼女の過去をどれほど知っているかで、彼女との人間関係は変わるんだ」
「どういう意味よ?」
ついに口を開いてしまった美鶴へ視線を投げ、だが、ふっとすぐに逸らしてしまう山脇。それは、どことなく気怠い雰囲気を帯びており、自嘲気味でもある。
「君は、僕よりも彼の方をより信頼しているよね?」
「別にどっちがどうってワケじゃないわよ」
憤慨気味に言い返すが、山脇は聞く耳も持たない。
「それはどうかな? 僕と彼とでは、あきらかに扱われ方が違うと思うけど」
「どういう意味よ? 私、それぞれで態度を変えたつもりはないっ」
「つもりがなくても、そうなんだよ」
「そんなことないっ」
「なく…… ないよ」
「そんなことないってっ!」
「じゃあっ! ………」
大口を開けて美鶴の顔を覗き込み、だがその先の言葉が出ない。
「な…… なによっ!」
気迫に呑まれぬよう睨み返しつつ、不安だけが身を包む。
だが一方の相手は、その先を躊躇したまま微かに瞳を泳がせる。
「………」
半開きの口からは、なかなか言葉が出てこない。
「何なのよ?」
「…………」
「何なのよっ」
「……………っ」
「何か言いなさいよっ!!」
「僕のっ」
美鶴の勢いに押される形で言葉を吐き出す。
そこで再び逡巡し、やがて瞳を閉じて息を吸った。
「約束してくれ」
凛と響く声音に、美鶴も聡も息を呑む。
「僕のことも、名前で呼んでくれ」
「え?」
約束をしろと言うからどんな難題を吹っかけてくるかと思えば。
「名前?」
「そう。僕も君のことを名前で呼ぶ」
「なんだ? それ」
肩透かしを食わされたようで、聡は苛立ちながら一歩前へ出る。途端に山脇は腕に力を入れた。
「――っ」
「やめろっ ルークっ」
「瑠駆真だっ」
聡へ向かって言い返し、再び顔を美鶴へ近づける。
「約束して」
耳に囁かれる声は甘く、そのまま全身を委ねてしまいそうになる。それほどに声は優しく力強く、抵抗力を奪っていく。
コイツ ――――怖い
「美鶴っ」
歯軋りをしながら叫ぶ声を、美鶴の声が遮った。
「わかった」
「え?」
「わかったから、放して」
…………
「本当に?」
言っておきながら目を丸くする山脇に、美鶴は大きく首を縦に振る。
「放してよ……… るっ」
そこで美鶴は言葉を切り、大きく息を吸った。
「瑠駆真」
パッと腕が離れ、少年は二・三歩後ずさる。
「美鶴っ!」
床に倒れこみ、両手をつく彼女に聡が駆け寄る。両手で肩を抱き、噎せる顔を覗き込んでからパッと見上げた。
「おめぇ――っ!」
半ば放心状態の瑠駆真の襟元に、聡の腕が伸びる。
「っざけんじゃねーぞっ」
そのまま拳を振り上げる。
「やめろっ!」
体力を消耗しながらも渾身の力を込めて叫ぶ美鶴に、上げたまま腕を止める。
「やめてよ。もういい」
胸を押さえ、必死に呼吸を整えながらノロノロと首を動かす。
「もういいよ」
「もういいって」
「別に、怪我とかさせられたワケじゃない」
そう言って、瞳を閉じた。
「でも…… だいたい、なんだよ、名前だと?」
怒りの納まらない様子で、しかし掴んだ襟を放り出した。押されて瑠駆真はヨロヨロと揺れ、壁に背凭れる。
「ルークだろうと瑠駆真だろうと、一緒だろっ」
いや違う。
美鶴はキッパリとそう思う。
それはきっと、美鶴が霞流慎二に『美鶴さん』と呼ばれた時のような、そんなものなのだろう。
別に、彼に惹かれているというワケではない。
必死に言い聞かせながら、だが、呼び方呼ばれ方一つも人間関係にとっては重要なのだと、なんとなく理解した。
少なくとも、まだ付き合いの浅い関係にとっては……
動揺する胸を抑えながら上げる視線の先で、山脇瑠駆真がズルズルと壁に背を引きずり尻を付いた。
虚ろな瞳。
やがて、蒼白した顔を、両手の中に埋めた。
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